Wednesday 16 September 2009

神様が降りたくなる場所(続き3)

少々日にちが空いてしまいました。
こんばんは。


夫サリーちゃんが仕事から戻ってきて、
6日間お休みだったので、一緒にお出かけしたり、
あと、引っ越し荷物が運び込まれ、あれこれ
していたため、なかなかブログ時間が取れません
でした。


本日より、またサリーちゃんは8日間
戻ってきませんので、ブログ時間が
たっぷりできました。
(ひとりは寂しいけど)


お久しぶりでございます。ぺこ


また、前回何書いてたっけ?
という感じになっておりますが、
めげずに続きを書きます。


゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚




きれいに掃除をし、場を清めることで、
神様にふさわしい神聖な空間を作る
ことができるならば(本当にいるかどうかは
定かではないとしても)、


別に教会や、神社、お寺や、モスクでは
なくても、ふさわしい場所さえあれば、
そしてふさわしい人がいれば、
神様は降りてきてくれるのでは
と考えてしまうのです。


ちなみに、私、宗教は信じませんが、
神様はいるのでは(いてほしい)、
と、何となく思っています。


ロンドンは、人種のるつぼですが、
もとから住んでいるクリスチャンの
イギリス人、そして移民してきた
イスラム系の人々が占める割合は
かなり高いと思います。


あれだけ熱心に宗教を信仰している
この2つのクリスチャンとイスラムの
人々ですが、


確かにクリスチャンが毎週末熱心に
教会に通ったり、イスラムの人が
これまたモスクに通ったり、食事制限
(お酒、豚はダメ、とか、断食月がある、とか)
を守っているのは、怠け者の
私にとっては、賞賛に値するのですが、


そんな律儀な人々が、街中では
ゴミを放り投げて、ゴミがすすり
舞うような惨状の通りにしてしまっても
平気であったり、バスや電車の座席に
土足を投げ出したりしていると、
ほんとに同じ人間なのか?と


目を疑ってしまいます。


もし、彼らが、キリストまたは
アッラーの神が教会やモスクだけに
鎮座ましましているのではなく、


生活のあらゆる場所にともにいますよ、
という認識がミジンコ程度にでもあれば、
あのような振る舞いになるかなあ、と
ひたすら疑問なのです。


相手が人間であれば、その人の見ている前で
取り繕っていれば、何とかなるということも
あり得るかと思いますが、


相手が神様であった場合、神様がいそうな
教会やモスクで礼儀正しくお祈りや懺悔さえ
しておけば、あとは見られてないから何やっても
いいや!


では、当然ないと思うのですが・・・。


おそらく、彼らにとっての宗教とは、
日本人が自然にお米を主食だと
思って食べているのと同じように、
そういう環境で育ったからそうしている、
という、ほぼ惰性のようなところがあって、
あれだけ宗教に染まっていながらも、
神様の喜ぶような、きれいな生活環境にしよう、
という発想には、なかなか結びつかないようです。


神様は、自分のために違う神様を倒してくれるための
戦争といったアクションや壮大なハリウッドムービー
張りのどんちゃん騒ぎに狂喜乱舞する、


というのは考えにくく、


日常生活を大切にし、公共の場はきれいに
保つマナーも忘れない、


そういう、当たり前のことを当たり前にできる人の方が、
よっぽど神様は喜ぶと思うのですが・・・。
(平凡な私の神様観)


教会やモスクは、建物の荘厳さもさることながら、
掃除が行き届き、花や香の香りに満たされ、
捧げられた数えきれない人々の祈りが空気を満たし、
独特の敬虔な雰囲気に満ちていますが、


普段の生活環境も、同じような気配りをするだけで、
神様が降りたくなるような場所にできるのになあ、


と、今は遠くなってしまったロンドンを思い返して
思います。


国といえども、足もとが大事。街の景観、
住民のマナーのレベル具合が、案外、
将来の国運を示す指標になっているのでは、
と思ったりいたします。


お世話になったロンドンが、あの歴史的街並み
に似合う、ジェントルマンな振る舞いに溢れる
都市に戻りますように!


との思いを込めて。


また長くなっちゃいました。てへ
シリアスモードで書くのは、ブログだと
少々恥ずかしいです。


次回は、軽めの記事にしようかな。ウフフ


では、おやすみなさいませ。


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